BUMP OF CHICKEN 歌詞解剖

 『月虹』は2018年9月26日、からくりサーカスのpv第二弾のなかでpv版の1番のサビが初公開、相思相愛のタイアップとして大いに期待されました。
 その後にop版が公開、歌詞の密度と質の高さ、北欧民族チックなサウンドが注目され、フルバージョンの公開がさらに期待されます。
 しかし、フルバージョンはなかなか公開されず、ついにはアニメのクールが変わり、op曲は別のアーティストの楽曲となりました。
 そして月虹の公開に関する情報が一切ないまま年が変わり、2019年、フラストレーションに苛まれた人も多く、掲示板には毎日月虹を催促する同様の書き込みをするものも現れ始めます。 
 op版公開から半年が経った2019年4月5日、ここでからくりサーカスが第三クールのedテーマとして月虹を再起用する異例の発表があり、ようやく月虹の1番と2番が公開されることになりました。
 そして同年7月、初出から約10か月後、『aurora arc』の発売により、ついに、ようやく、フルバージョンが発表されました。

 『aurora arc』ではinstrumentalに続く2曲目に位置し、相当な熱量で以て聴者を圧倒しました。私も初めてフルを聞いたときに、焦らされた時間の長さもあり、凄まじいカタルシスを感じたことを記憶しています。前置きが長くなりましたが、そもそも"月虹"とは何か、月虹内のストーリー、顚末などなど、一から考え、『月虹』がいかにして魅力的かを探りたいと思います。

 本楽曲とつながりの濃い(であろう)からくりサーカスは全く読んだことがないので、解説や考察という語は避けました。それと、月虹の解説(?)が載ったMUSICAなど音楽雑誌が書籍部にて手に入らなかったので、そちらの参照もありません。『月虹』単体での掘り下げになります。ご了承ください。

 さて、今一度歌詞全体を御覧なさい。


1.夜明けよりも手前側 星空のインクの中
 落として見失って探し物
 心は眠れないまま 太陽の下 夜の中
 つぎはぎの願いを灯りにして

2.何も要らない だってもう何も持てない
 あまりにこの空っぽが大き過ぎるから

3.たった一度だけでも頷いて欲しい
 鏡の様に手を伸ばして欲しい
 その一瞬の 一回のため それ以外の
 時間の全部が 燃えて生きるよ

4.僕の正しさなんか僕だけのもの
 どんな歩き方だって会いに行くよ
 胸の奥で際限なく育ち続ける
 理由ひとつだけ抱えて
 いつだって 舞台の上

5.思い出になれない過去 
永久リピート 頭ん中
 未だ忘れられない 忘れ物

6.謎々解らないまま 行かなくちゃ 夜の中
 今出来た足跡に 指切りして

7.同じ様な生き物ばかりなのに
 どうしてなんだろう わざわざ生まれたのは

8.世界が時計以外の音を失くしたよ
 行方不明のハートが叫び続けるよ
 あっただけの命が震えていた
 あなたひとりの 呼吸のせいで

9.いつかその痛みが答えと出会えたら
 落ちた涙の帰る家を見つけたら
 宇宙ごと抱きしめて眠れるんだ
 覚えているでしょう
 ここに導いた メロディーを

10.耳と目が記憶を掴めなくなっても
 生きるこの体が教えてくれる
 新しい傷跡に手を当てるそのたびに
 鮮やかに蘇る懐かしい温もりを

11.世界が笑った様に輝いたんだよ
 透明だったハートが形に気付いたよ
 どこに行ったってどこにも行かなかった
 あなたひとりとの呼吸のせいで

12.たった一度だけでも頷いて欲しい
 どんな歩き方だって会いに行くよ
 あっただけの命が震えていた
 理由ひとつだけ 虹を見たから
 いつだって 舞台の上




 月虹の構成する魅力について、先に3点述べておきたいと思います。

​1.自己本位的な切望感の強い詞
2.文章単位での巧みな歌詞構造
3.歌詞全体でのストーリー構成

 道中でこの三点に殊に注目し直すことはありませんが、時々は確かにと思えるように書いていきます。では歌詞を最初から見ていきたいと思います。
 早速第一段落から。



1.夜明けよりも手前側 星空のインクの中
 落として見失って探し物


 まず場面提示です。聴者はこの場面を想起してこの段落を、もしくはそのまま曲全体を聞くことになります。夜明けよりも手前側」ですので、イメージ的には午前3時くらいです。「星空のインク」というのはまさにその通りで、午前3時くらいが一番よく星が多く見えます。
 
 ここで、このような具体的なイメージはbumpの歌詞において意味を持ちにくいと思う方もいると思いますが、私はこの歌詞が、聴者に具体的なイメージを彷彿させる点において、アニメーションを想起させる意味でアニメのタイアップとして少なからず
役割を果たしていると思います。「星空のインク」という語は、このイメージを与えさせる役割を持った豊かな語だと思います。さらに星空のインクの”中”です。瑣事ですが、星空の下にいるのではなく、星空のインクの中という表現が没入感を高めています。
 
 「落して見失って探し物」ですが、先申した月虹の魅力を構成する三要素の一つ、文章単位での巧妙な歌詞の一つです。
 これは解釈が時系列によって二つに分かれると思いますので、その選択について。

ⅰ)以前持っていたものを落して見失った結果、探し物になった。
ⅱ)探し物 の追加説明としての落して、見失って。すなわち落す、見失う、探しているのは同時系列。

 語の順番を素直に受け入れるならⅰが自然ですが、ここで私はⅱをとりたく思います。藤原基央は過去を表現する際に、語の順番を利用するのではなく、過去の助動詞を用いるからです。この例として過去の表現をいちいち切り出して稀有な反例(あればであるが)とともに示すことはしませんが、過去を表す歌詞を思い浮かべてもらえればすぐにわかると思います。かならず、「た」とか「だった」とかが付くと思います。
 
 さて、しかしⅱで解すとなると矛盾が生じます。落す、見失うという動作が、探し物の中に含まれないからです。つまり、探し物は持っていませんから落しませんし、見つかっていないから見失わないということです。これは矛盾であり、ⅱの解釈は不合理だと言われればそうかもしれませんが、それでも私はⅱのほうが極めて藤原基央的だと感じます。というのは、こういった矛盾表現は、ご存じのようにほかの歌詞でも見られるのです。例として

あの透明な彗星は透明だからなくならない」(ray)
迷子のままでも大丈夫、僕らはどこへでも行けると思う」(記念撮影)
「その羽で飛んで来たんだ,羽根は折れないぜ、もともとついてもいないぜ」(望遠のマーチ)

などなどがあります。主にray以降に多く見られます。さらに、例のすべては、記念撮影で示したことがあったように、うまく解することで矛盾を回避することが出来ます。整理すると、過去の表現ではないこと、矛盾が生じるが、これは多く見られる技法であること、解消可能であることを理由としてⅱと推します。

 今回は矛盾を回避するために、探し物の定義を拡大します。探し物は、常に自分の中にあり(落せる)、評価できるもの(見失える)とします。探し物、もしくはその中身は自分の中にあるので落せますし、探し物、もしくはその中身が正しいものか判断がつかず見失うこともありましょう。こうしてみると、探し物、もしくはその中身は自分の中の正しさや、教条ともいえると思います。常に自分の中にある理由は、なにかほかの力が関わっているのかはのちに説明します。どうにか妄想への矮小化を避けながら論理的に説明しましたが、少しでもうまく伝わっていることを願います。


 心は眠れないまま 太陽の下 夜の中
 つぎはぎの願いを灯りにして
 

 最初に夜明けよりも手前側という場面提示がありましたが、またしても太陽の下、そして夜の中という場面を提示されます。私はこの混乱を招く構成についてはいいと思っていませんが、別段悪いことだとも思っていません。最初に明確に夜という場面を与えられた聴者は、この短いスパンで太陽という真逆の場面を提示されて、初めは矢張り混乱します。しかしながら、この太陽の下 夜の中は、一日中心が眠れないということを表現したときの一日中が間延びしただけであり、楽曲という、字面を追わない、聞いてすぐ次を聞くというスタイルにおいて、このちょっとした具合の悪さが与える影響は、かなり瑣末なものなので無視できるでしょう。ちなみにこの詩によって、二番にもみられる「~の中」の対句構造が保たれています。

 心は眠れないまま、という修飾は焦燥感を作り出しています。この焦燥感は月虹前半、すなわち1,2番まで続き、随所でその表現が現れます。
「眠る」という表現は、夜に呼応して引き出されたものであり、本質的には安らぐとか、月虹内では特に先述の探し物を見つけることというほうが好ましいでしょう。

 つぎはぎの願いを灯りにしてという句も、夜に呼応して用いられているもので、自分の行動を選択する意思・願望を暗闇の中で正しい行き先を照らす灯りに例えています。月虹の夜らしい雰囲気を作り出している一文です。

 つぎはぎの願いというものがいよいよよくわからんのですが、なんでしょうか。先登場した探し物は願いとも解せなくはない旨を申しましたが、見失ったりしてはどうにも灯りにはならなそうです。しかし、”継ぎ接ぎ”の願いであれば、一部見失ったり、落したりしても、また新たに獲得したりしたような願いとして解釈できそうです。すなわち、探し物=つぎはぎの願いとしてみようというわけですが、あんまり根拠がありません。

 ところで月虹には、僕を動かす要素となりそうな語が頻出します。
  • 探し物
  • 空っぽ
  • つぎはぎの願い
  • 正しさ
  • 理由一つ
  • ハート  などなど

 これらは、すべていち人物をうごかすものですから、突き詰めれば一致する可能性があるのは頷けます。まとめて後に整理しましょう。いったんは、探し物=つぎはぎの願いで置いておきます。
 
 今までの藤原の詞の通例と少し違うのは、僕は物理的にも心理的にも迷子ではないということです。行くあては灯りによって示され、心理的にも焦燥感を抱えつつ何か固まった意思があります。ここが月虹の、他楽曲と趣の異なるところであり、今後それが顕著になっていきます。


第1段落のまとめ
  • 夜の場面提示
  • 焦燥感のあらわれ
ちなみに、このAメロでのみ、アコーディオンが「パッパッ」となっているらしい。収録の様子がInstagramに投稿されていた。私は音楽に暗いので何回聴いてもどれがアコーディオンだかわからない。



2.何も要らない だってもう何も持てない
 あまりにこの空っぽが大き過ぎるから


 第二段落は印象的な歌詞です。この詞には強い我が認められます。かなりエゴな主張です。与えられる前提で、そこで何も要らないというのは、ただの主張よりも極めてエゴイズムです。もっといえば幼児的です。邪推すれば、藤原の少年性が、いままでと違った形に、すなわち切望感を高めるように適用されて、月虹の独特の魅力を作り出しているともいえましょう。

 意味としては、"僕"は何かを失ってしまったために生じた空っぽが、心を占有するので何も受けとることができないということです。ただし、受け取ることができないと言うと一寸おかしくなるのです。使用されている持てないという表現に注目しましょう。心が何も受け取れないとすると、"僕"を動かす要素についても感受性を持たなくなる。これはおかしい。してみると、心はこの空っぽを埋めるもののみは受け取れる、すなわち持てるのです。また、心という表現は後述のハートと重複し、煩雑になるので、矢張り「持てない」という表現が適当です。

 空っぽをつくった失った何かについては、のちにあなたという形で登場します。

 第2段落のまとめ
  • "僕"は過去に何か失って空っぽを得た。
  • "僕"は空っぽに埋まるもの以外持てない。
なにを失ったのかは後に触れましょう。



3.たった一度だけでも頷いて欲しい
 鏡の様に手を伸ばして欲しい
 その一瞬の 一回のため それ以外の
 時間の全部が 燃えて生きるよ


 いよいよサビです。長いサビ全体で注目するのは、語尾からみえる凄まじい自己主張、強い願望、エゴイズムです。これはまた第4段落のあとで整理します。

 第3段落では文章の語尾が「〜て欲しい」と「〜よ」 という明らかな願望と自己主張です。まずはたった一度だけ頷いて欲しいという願望です。これは何か対象に対して認めて欲しいという願望ですが、その対象や、頷いて欲しい内容は別に何だっていいと思います。これも議論の外にあると感じます。ただ、「鏡のように手を伸ばして欲しい」とあるので、"僕"は積極的に対象に向かって行動をしています。

 次の歌詞が興味深く、「たった一度だけの肯定」を得るため以外の時間の全部が燃えて生きるのです。歌詞を単簡にすると、「時間が燃えて生きる」です。一見不自然な詩だと思います。「時間を生きる」とは言いますが「時間が生きる」とは言いません。すなわち生存するという意味での「生きる」という動詞の主語は生物しかありえません。では、どうして「時間が生きる」と表現したかと申しますと、「燃えて」との繋がりを考えた結果だと私は考えます。
 燃える対象は物であれば何でもいいわけで、それが事象や概念へ飛躍しても、我々は難無く意味を飲み込めます。「時間が燃えて」なら、激しい燃焼的な時間経過、すなわち焦燥感を想像することが出来るというわけです。
 ですから、総合的に捉えれば自然な表現と言えるでしょう。試しに時間と生きる関係を重視して「時間の全部"を"燃えて生きるよ」とするとどうでしょう。なんだか、燃える対象まで僕になってしまい、時間経過イメージが損なわれ、焦燥感がなくなります。ここの歌詞は、絶妙な重なりあいの中に平衡をもって、素晴らしく機能した詞だと思います。

 さて、"僕"の状況がサビでよくわかりました。とにかく、自己の中にある信念に心を突き動かされて、何らかの肯定のために、切羽詰まって生きています。矢張りエゴです。しかし、このサビあたりから、行きすぎたエゴに何処か切なさを感じることがありましょう。月虹の魅力を構成する要素の一つとして、”暗さ"、"切なさ”も最後まで尾を引くものであります。


​第3段落のまとめ
  • "僕"は自己への肯定を得るために、絶体絶命に生きている。
  • 強いエゴから切なさのあらわれ。
ちなみに、pv版はこのサビからの公開となりました。私が初めて聞いたときは、前段落での夜へのイメージ誘導が無かったために、かなり月虹というワードに引っ張られ、なんだか漠然と虹っぽさを感じました。



4.僕の正しさなんか僕だけのもの
 どんな歩き方だって会いに行くよ
 胸の奥で際限なく育ち続ける
 理由ひとつだけ抱えて
 いつだって 舞台の上



 ここにもかなりの衝撃をもった、パンチのある歌詞が連続します。月虹は本当に一文々々熱と力が籠もっています。特に前の二文は、月虹のエゴイズムを象徴するような詞です。
 
 僕の正しさなんか僕だけのもの」という詩は、とても魅力的です。"僕"の弱いながらも力強い我と生を感じざるを得ません。
 "僕"は「正しさ」をはっきり持っているようです。となると、自分が信じる正しさを頼りに生きる訳ですから、僕の正しさ=つぎはぎの願いとも言えるでしょう。

 ここで、前に申した「探し物=つぎはぎの願い」が引っかかる方がいると思います。というのは、その仮定を認めれば、等号の公理(a=b,b=cならばa=c)より、「正しさ=探し物」となり、持っているものを探し物というのは矛盾だということです。
 この解決は、探し物の定義の拡大を思い出すことで容易に可能です。本歌詞での探し物は、落とせるし、見失えるものと定義しなおしました。持っていても、探すことが出来るのです。

 そして、まだ、この論を固く補強する証拠があります。それは、「僕の正しさなんか​僕だけのもの」という、卑下の「なんか」が附着していることです。
 この「なんか」は、前の名詞を下げる働きを持ち、例えば「寒いけどコートなんかいらない」なんて文は、容易に意味が通じると思いますが、コートを、この人がファッション的な観点で嫌っているのか、重いとか機能的な点で嫌っているのか、何であれ、コートを卑下しているのがわかると思います。すなわち、この歌詞では、「正しさ」を、「なんか」によって下げているのです。

 なぜなら!その正しさとは、まさに「探し物」であり、落として見失ってしまうからです!

 「正しさ」とは呼べない、酷いものだけど、その正しさは自分だけのものというわけです。

 藤原の歌詞の一つ一つに合理的な意味があることがとてもわかります。藤原がそこまで考えているかは別として、彼の世界観に一本通った分厚い芯を、解剖を通して覗き見ることが出来たと思います。


 関係ありませんが、ここで注意しておくのは、本当に難しいことは、難しいことを簡単にする事で、簡単な事を小難しく言うのは真に能力のいることではないのだということです。すなわち思想を歌詞にすることは、歌詞から難しい思想を掘り返すことよりも、遥かに難しい事なのです。


 「どんな歩き方だって会いにいくよ」
これまた強烈な詞です。肯定を獲得への向かい方がどうであれ、会いにいくというわけですが、会いにいくよと言うからには、相手がいるような気がしますが、これも論外で良いでしょう。とにかく、たった一度だけでも頷いてほしいがために、見た目手段を選ばないような強い我執に注目できればよいでしょう。
 冷静に考えてみると、奇怪な歩き方で会いに来られたら、頷きようにも頷けないような気が起こりますが、この一寸変な、いき過ぎた表現も、今まで見てきた詞の作り出す雰囲気によって上手く落とし込まれていると感じます。

「胸の奥で際限なく育ち続ける理由一つだけ抱えて いつだって舞台の上」
について、第2、3段落を思い出していただくと、"僕"は空っぽが大き過ぎて何も持てない状態、もっと深く読むと、空っぽと等価で空っぽを埋めるものなら持てるという状態でした。この詞はまさにこの状態と合致します。ここの理由一つは、空っぽに埋まる形なので抱えられるという事です。
 また、もっと着目すべきは「だけ」による限定です。抱えられるのは、この「理由一つ」だけというわけです。そうすると、もうここで、先述した僕を動かす要素は、一つのみか、全て同じ場合しか有り得なくなりました。
 要素はかなり複数上がりましたので、全て同じということになります。
 さて、この僕を動かす要素として同一の理由一つだけが、際限なく育ち続けるので、それはすなわち、空っぽもまた、際限なく大きくなるということです。
 こうしてみると、第二段落の「あまりにこの空っぽが大きすぎる」という表現にも説得力が生じます。

 「いつだって舞台の上」についてですが、これはからくり"サーカス"に連関を持った語選択だと思うのですが、読んでいないので何ともわかりません。舞台の上によって付加される状況は、「観客が存在する」「本番であり失敗は許されない」とかでしょうか。これは推測を超えることはありませんが、舞台上の性質に加え「後戻りできない」というようなニュアンスを示したのでしょうか。

 ここまで、殆ど見落としてしまいがちな点について細かく見てきました。月虹という作品がどんなに巧妙で、丁寧に作られているかがわかってきたかと思います。

第4段落のまとめ
  • 僕"を動かす要素(正しさ,空っぽ,...)は全て同一。
どんな歩き方だって会いにいくよの所のベースがとても好きです。pv版とop版では結構しっかり鳴っていたが、フルバージョンではちょっと薄くなっていて寂しい。あと、op版では裏でふわーーーんとティンホイッスル(?)というものが鳴っていて、このアレンジもまた好きでした。無論フルバージョンも好きです。

 1番まででわかったと思いますが、昔は"僕"は"あなた"といて、今は"僕"は"あなた"といません。つまり、"僕"が失った何かとは、「あなたといない僕の生の意味」です。
​後に謎々として換言されてでてきます。




5.思い出になれない過去 永久リピート 頭ん中
 未だ忘れられない 忘れ物


 2番に入ります。2番では1番で大きく示された焦燥感が更に高まり、その解決に徐々に接近していきます。
 第5段落は、1番と同じ「〜中」と「〜物」で終わる句が用いられた、横の歌詞利用構造で展開されます。結構よく見られる、藤原の詞の書き方の典型ですが、どうして横といったかと申しますと、歌詞を二つ横に並べて比較できるという訳からです。同じメロディーの部分の歌詞を、ちょっとだけいじるやつです。最近は歌詞を一句そのまま再利用する、縦の歌詞利用構造(1番のサビをラスサビで繰り返すなど)が多いです。縦といったのは、横で比較するのではなく、縦にそのまま別の場所へ句ごと持っていくイメージからです。恐らく、歌詞製作にiPadを使い始めて、コピーアンドペーストが楽に出来るようになったことが要因でしょうか。凝った句は横の歌詞利用構造に多いイメージです。無論、縦の利用にもまた新しい趣があります。
 「思い出になれない過去」は、頭の中にずっと繰り返し現れ、頭を占有する物で、すなわち空っぽと同じと言えるでしょう。わかりやすくすれば、空っぽの正体・中身です。
 藤原の詞において、過去と思い出の関係がたまに出てきます。


過去と思い出に関する歌詞

飴玉の唄
僕は 君と僕の事を ずっと思い出す事はない
だって忘れられないなら 思い出に出来ないから」
supernova
君の存在だって いつでも思い出せるけど
本当に欲しいのは 思い出じゃない今なんだ」
ray
「理想で作った道を現実が塗り替えていくよ 思い出はその軌跡の上で輝きになって残ってる」

 総合するのが難しいですが、まあ思い出という語の使われ方をお浚いしていただければよいでしょう。
 月虹内では、「過去」の修飾として使われます。思い出になれない過去ですから、上記の例も視野に入れると、「忘れられない過去」と簡潔にすることができます。
 さて、続く詞も、「未だ"忘れられない"忘れ物」とありますが、"忘れられない"の共通で、過去と忘れ物を同一視して良いと思います。思い出になれない過去は空っぽを作った原因で、忘れ物は空っぽを埋める、空っぽそのものです。空っぽ自体を含む僕を動かす要素には空っぽ自体を含みますので、同一視してよいでしょう。過去と忘れ物が等しいとはどういうことかと頭がこんがりますが、"忘れられない"という共通によって等しいとして良いでしょう。
 
 思い出に「なれない」という表現にも触れておきます。なれないではなく、思い出に「ならない」と表現するよりも、その対象が丁重に扱われている感がでます。すなわち、思い出になることが無いのではなく、思い出になることができない、という訳です。過去を擬人法で扱うことで、重みが増しているんだと思います。

 ここで、未だ忘れられない忘れ物に着目してみましょう。
 忘れ物は、忘れて初めて忘れ物になりますが、忘れられないならば、忘れ物にはなりえません。似たような話が第一段落にもありました。そもそも横の歌詞利用があるので当然です。第一段落では「落として見失って探し物」でした。この解決は探し物の定義拡大でしたが、こちらも1番のくだりと同様な定義拡大で良いでしょう。矢張り、僕を動かす要素として同一なのですから。

 忘れ物について「あのとき忘れた」ということを忘れることができないというイメージはやめましょう。このイメージは失うことを失うといった藤原的な詞における最悪のパターンです。今は忘れることが善であるような言い回しなので、自ら望んで最悪のパターンに陥ろうとはしていません。
 今回は「忘れられない」を「思い出にできない」と換言すると良いでしょう。
 また、何を忘れたのかについては、等しい関係にある"僕"を動かす要素を眺めるとわかると思います。正しさとか願いとかです。

第5段落のまとめ
  • 空っぽ(の原因)=忘れられない過去=思い出にできない忘れ物="僕"を動かす要素

忘れられない過去とは何かといえば、まさに、あなたと別れたことで、生の意味を見失ったことでしょう。



6.謎々解らないまま 行かなくちゃ 夜の中
 今出来た足跡に 指切りして


 
ここにも、横の歌詞利用の構造が見られます。「まま」と「夜の中」です。2番では、太陽の下が「行かなくちゃ」になり、より焦燥感が増すとともに、聴者へ提示する場面が明確に「夜の中」限定になります。解決(夜明け)への展開を進んだとも言えます。
 
謎々というのは無論要素の一つです。謎々自体が探し物であり、その答えが正しさであり、理由一つであります。謎々であるということに注意しましょう。謎々は常に頓智がきいた答えがあるものです。謎々の内容については後に登場しますので、その時考えましょう。

 動くから辛いのだと思います。『虞美人草』に登場する甲野さんの哲学にこうあります。「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛の反吐皆の一字よりる」そして同時に、尚も動かなきゃならんから辛いのだと思います。
 
 「今出来た足跡に指切りして」において、
全ての足跡ではなくて、今出来た足跡に限るのは、古い足跡は過去そのものであり、思い出になれない(忘れられない)ので決別できないからであります。指切りする理由としては、今現在の、要素によって動かされている僕は、「時間が燃えて生きている」ので、空っぽ(を作った要因)の過去とは異なり、今すぐ出来た足跡には決別することができます。というより決別していくほかないほど、空っぽが大きいのです。
 手っ取り早くいうと、「時間の全部が燃えて生きるよ」の類似表現です。決別できない過去と切羽詰まった今が上手く表現されています。

​第6段落のまとめ
  • 焦燥感の増長 解決への構成展開

ここのギターかっこいいですよね。



7.同じ様な生き物ばかりなのに
 どうしてなんだろう わざわざ生まれたのは


 これはまさに先程の謎々の中身です。これを解くときは、それまさに全ての解決が出来たとき(たった一度だけでも頷いてもらったとき)でしょう。ですから、この命題こそが月虹の解決すべきものだと言えます。

「何について同じ様なのか」という疑問がまず生じますが、月虹内ではそれを示す根拠がありません。このような同じ生き物という表現は他の歌詞にも出てきますが、「違う生き物」ということを強調する歌詞もあります。使われ方もそれぞれで、各人で異なる解釈をして良いと思います。
 私のイメージ的には、同じ生き物は表面的な問題で、違う生き物だというのはより深部までみた心の問題だと考えています。アリアの「僕らはお揃いの服を着た 別々の呼吸 違う生き物」という表現を見るとそう感じます。

 ここで、この謎々の中身について考えますが、この謎々の裏にある前提について考えると、この謎々がはっきり見えてきます。それは、

 「同じ様でなければ、つまりが吾人が皆多様である場合、生の意味が与えられる」

 ということです。この前提のもと、皆んな同じようなもんなのに、なぜ生まれたんだろうと考えるわけです。すなわち、この謎々は、自分の存在についての問題と言えます。自分の存在価値がどこにあるのか、"僕"はそれを"あなた"に求めて「たった一度だけでも頷いて欲しい」のです。
 ここまでで、僕を動かす要素の一つである謎々、そしてその中身から、肯定の内容は「自分の存在価値の獲得」にまで焦点を整えることができました。
 ここまで整理すると、月虹における解決が漸く見えてきます。

 月虹のこの部分において、その実同じような生き物では無いのにもかかわらず、同じような生き物ばかりであると言うのは、月虹の語り手(藤原)が存在せず、常に"僕"の視点で動いているからです。
 僕は絶対絶命に要素に動かされていて、時間が燃えているなかで、視野が狭くなっているのでしょう。
 だからこそ、僕は謎々の答え=自己存在の意味をあなたに「肯定」という形で求めるのです。

第7段落のまとめ
  • 月虹における最大の問題(なぞなぞ)は「自分の存在価値は何か」そしてその発見こそが"僕"における解決。"僕"は"あなた"にその発見を求めている。



8.世界が時計以外の音を失くしたよ
 行方不明のハートが叫び続けるよ
 あっただけの命が震えていた
 あなたひとりの 呼吸のせいで


 2番のサビです。ここも訴えかけるような語尾、そして意味的にも強い自我を感じます。
 「世界が時計以外の音を失くしたよ」は「時間の全部が燃えて生きる」の類似表現でしょう。
行方不明のハート」は心についての、「空っぽ」と根本義は同じです。ここまでで、心は空っぽが大きすぎて僕を動かす要素以外持てないとわかりましたが、それを意味する語として「行方不明」という語が用いてられています。すなわち「叫び続ける」とはこの空っぽを埋めるものを求めているということです。
 意味的に同じ類似表現が多いですが、これは単なる繰り返しではなく、表現を変えて再登場させることで、その程度が強まっています。

 「あっただけの命が震えていた あなた一人の呼吸のせいで

 この歌詞はすごくパンチがありますね。稀有なほど我執の頂点的な表現です。命が震えていたは、怯えていたとかではなく、肯定のために時間が燃えて生きるために、あっただけ:それ以外に役割を果たさない命が精一杯に活動するからです。そして、この苦しみを、あなたの呼吸のせいと責任を押し付けるのですから、エゴの極みです。 
 あなたとは、肯定を求める相手です。あなたに自分の存在価値を求めすぎて、激する心を、却ってあなたのせいにしてしまう、切ないような振り切れた切望感が読み取れます。あなたのせいというのも、呼吸≒生のせいとするのですから、その程度は甚だしい。
 肯定を求める相手としての"あなた"がここにきて初登場しますが、この二つを同じとみて何ら問題はないでしょう。(細かくいえば、頷ける、手を伸ばせる、会いに行ける、性質を持っていて、これらは"あなた一人"すなわち人として差し支えないでしょう。)
 

​8段落のまとめ
  • あなた一人からの自己存在の肯定のために絶体絶命に生きる僕の我の表現
ここから、バックコーラスっていうんですか、なんか入りますよね。1番とは少し趣が変わって好きです。



9.いつかその痛みが答えと出会えたら
 落ちた涙の帰る家を見つけたら
 宇宙ごと抱きしめて眠れるんだ
 覚えているでしょう
 ここに導いた メロディーを


 その痛みは先申しました苦しみのようなもので、この苦しみは何故生じるかというと、"あなた"に自分の存在価値を求め、絶対絶命に生きるからでした。この痛みが答えと出会うとは、すなわち痛みの根本を解消すること、自己の存在価値を獲得することで、次の落ちた涙の帰る家を見つけるも同じ様な意味です。そうすれば、眠れないままだった心が眠れるわけです。
 ただ、空っぽばかりの僕は、要素以外を持つことが出来ず、時間が燃えて生きる状態で、果たして痛みを感じられるのか、涙を落とすことが出来るのかとも思われますが、まさに要素こそが痛みで、要素こそが涙を落とす原因なので良いでしょう。

 宇宙ごと抱きしめてというのは、新世界でも見られますが、この時期あたりの藤原のお気に入りの表現でしょうか、解決≒悟り的な雰囲気がする表現です。どうであれ、とかくに自己の存在価値が得られれば、解決するというわけです。
 ここまで辺りの表現はこの段落で白眉です。月虹という鋭い自己が溢れ出た歌詞において、帰る家宇宙ごと抱きしめてという、可愛げのある表現が、月虹での切なさを深めているのだと思います。

 さて、次の覚えてるでしょうが厄介であります。すなわち、誰に対する呼び掛けなのかということ、前文、前段落との繋がりは何かということです。

 倒置法によって順番が逆転している、直後のここに導いたメロディーをの方に先に見てみましょう。

 ここに導いたとありますので、"僕"はここに到着したようです。こことは何処かというと、メロディーによって導かれた場所ですから、僕の目的地と考えるのが妥当ではありますが、なんとも言えません。ここが、道中を指す場合も十分考えられます。

 メロディーは、僕を導くもの、すなわち僕を動かす要素です。

 さて、覚えているでしょうについてですが、呼びかけの対象は"僕"自身とできるでしょう。しかし、今まで通りの僕を動かす要素にしてしまうと、頭の中に溢れんばかりの空っぽとして存在していたはずのものに対して、覚えてるか自問するのは変であります。つまり、時間的にはもっと過去のものであるはずなのです。
 結論から言いますと、このメロディーは、僕を動かす要素を産んだものと考えられます。
 注意するのは、このメロディーは僕が抱えているもの、もしくは僕の中にあるものではなく、別の場所から聞こえて来るものです。だからこそ、何も持てない僕にも聴こえるのです。
 しかし、空っぽになる前に持てない僕にも聴こえるとすると、時系列の違和感があります。ですから、メロディーは、自分の中で過去の一時点にのみ発せられたものではなくて、過去の間中か、度々流れていたものです。
 整理すると、メロディーは、僕を動かす要素を生み出し、度々もしくはずっと僕の頭の中に流れたもので、のちに僕が空っぽで何も持てなくなった後も聞くことが出来たという事です。
 メロディーの正体すなわち僕を動かす要素を産んだものは何かといえば、"僕"が失ったものです。
 メロディーは、僕を導くもので、苦しみとか、そういうマイナスなものではないイメージから、おおよその予想がつくでしょう。これが何かはこのあと徐々に明らかになります。

​9段落のまとめ
  • ​あなたからの肯定の獲得で心が休まる
  • ​自分を動かした要素を産んだものの出現



10.耳と目が記憶を掴めなくなっても
 生きるこの体が教えてくれる
 新しい傷跡に手を当てるそのたびに
 鮮やかに蘇る懐かしい温もりを


 さて、ここからじわじわと解決(謎々の解を得る=自己存在の意味を得る)へ向けて進みます。「耳と目が記憶を掴めなくなっても」では、意味はそのままですが、掴めなくなってもという表現に着目しましょう。受容器官に対して掴めなくなってもというのは、"僕"の心が「何も持てない」からです。現在の僕は、心で何も持つことが出来ないので、今得る記憶すらも、掴んで、指切りしてお仕舞いなのです。

 次の文でも倒置法があります。整理すると、「新しい傷跡に手を当てるその度に、生きるこの体が、懐かしい温もりが鮮やかに蘇ることを教えてくれる」です。ここが、まさに解決の一手です。
 必死で絶体絶命に時間が生きる、何も持てない僕が、「温もり」を手で感じるのです。
 暗く、切望感のあった月虹内に、明らかな光でしょう。
 「生きるこの体が教えてくれる」というのは、「自分の生が教えてくれる」ということで、換言すれば、自己の生に意味を見出したのです。何を教えてくれるのかというと、「懐かしい温もり」ですが、これは"蘇る"という表現から過去のものなのは自明です。"懐かしい"という表現から推して、第5段落での表現を用いて、思い出になれた過去です。そしてこれが、メロディーの正体です。
 傷跡という、生という絶対的な基礎のもとに生じる生の印(かつ傷跡は千差万別、自己に特有である)に手を当てる度に、自分の生を実感し、そこに時間の経過を見出して(些細でも歴史を持っていたことに気づいて)、思い出になれた過去(指切りしない大過去、思い出)が鮮やかに蘇るのです。そしてそのことを、自分の生が発見したのです。
 複数性をもつ"度(たび)"と一回きりの"発見"が違和感を生んでいますが、この発見は、全てひっくるめた包括的な発見としてやり過ごしましょう。
 また、なぜ傷跡が思い出を呼び起こすのかについてですが、一つに時間の経過を視認するからで良いでしょうが、この傷跡は「新しい」ので、傷がついた時を思い出すからという解釈はここにおいては間違いでしょう。傷がつくのは時間が燃えて生きる間のことであり、思い出の時の傷では「新しい」とは言いません。
 そして、思い出は僕を動かす要素ではないので、持つことができず、僕が失くしていたものです。僕は傷跡にのみ思い出を思い出すことが出来るのです。

 長くなりましたが、この第10段落が解決への第一歩です。
状況を整理しましょう。

 "僕"は何かを失って、出来た空っぽを埋めるために、"あなた"に自分の生の肯定を求める。
 肯定を求める過程で時間が燃えて生きているが、自分を動かす要素以外を持てない。
 "僕"はこの過程の道中、もしくは終着地で、新しい傷跡=自己に特有な生の証拠が、何も持てない僕に思い出を蘇らせてくれることに気づく。

第10段落のまとめ
  • 解決への第一歩
  • "僕"は傷跡=生の証拠が思い出を蘇らせることを発見する。
転調っていうんですか、このCメロから調子が大きく変わって、初聴のときに驚きました。しかし、優しい調子ながら、月虹の持つ我執、暗さが含まれている感じがします。そして、最後のサビに向けて盛り上がっていく感じが好きです。飽きない魅力も、このCメロによって立脚もしているのでしょう。音の話をするとクラップも見事です。

 

11.世界が笑った様に輝いたんだよ
 透明だったハートが形に気付いたよ
 どこに行ったってどこにも行かなかった
 あなたひとりとの呼吸のせいで


 ここで明確な解決が行われた証拠が詞に表れます。まず、世界が笑ったように輝きます。まるで、世界が自分の存在を認めたように微笑んでいる感じでしょう。つまり"僕"は終に世界から肯定され
ます。
 しかし、「あなた」からではありません。​確か"僕"は"あなた"から肯定を得ようと必死に生きていました。すなわち、ここで述べたいのは、月虹での解決は、万事解決の平和的(非才脳人的)なものではなく、矢張り藤原基央的な解決なのです。根本的な解決には至っていないのです。
だからこそ、あのアウトロがあるのです。アウトロについてはまた最後に述べますが、ここでも注意しておきます。

 さて、「透明だったハートが形に気付いたよ」についてですが、これもあくまで透明が極彩色とかになった訳じゃなくて、単に形に気づいただけで、透明なままです。とかくに、何も持てなかった自分の心が、なんでも持てるようになったのでしょう。わかりやすいイメージは輪郭です。自己の輪郭がぼやけて形が分からなくなっていた"僕"が、自己存在の肯定=自己の輪郭、形を得たということです。それはなぜかと言えば、前の段落の発見によるものです。

 次の「どこに行ったってどこにも行かなかった」も、ハートについての描写です。というのも、"僕"のハートは行方不明でした。そんなハートは、実はどこにも行っておらず、ずっと自分の中にあったということに気付いたのです。
 まあ、ハートは叫び続けていたので、どこにもいっていないだろうことは至当ですが、藤原のよく使う、土俵替えです。前提を自然にすり替えて、巧妙な表現をする手法です。わかりやすく言えば、問題に対して真っ当な解決をせず、極めて違った角度から、根本的な解決をしない解決を下すのがこの手法の内です。

 そしてこの「行く」という語については、「行かなくちゃ夜の中」など、"僕"自身の行動にも表面だけ掛かっている言葉です。

 つまり、ここまでが前段落で申した発見の内容及び発見直後の変化です。
 前段落では、傷跡によって自分の思い出が蘇ることを発見しました。ここでは、この発見により、世界が輝き、透明だったハートが形に気付き、心がどこに行ったってどこにも行かなかったことに気が付き、

 次の句について、「あなた一人との呼吸のせいで」→「傷跡が思い出(あなた一人との呼吸)を蘇らせてくれるせいで」、世界が輝き、どこに行ったってどこにも行かなかったのです。

 一寸ごちゃごちゃになりましたから整理しましょう。

 僕は新しい傷跡によってのみ"思い出(あなた一人との呼吸)"が鮮やかに蘇ることを発見する。
→すると世界が笑ったように輝き、自己存在の肯定を得る。失ったもの(あなたとの思い出)を取り戻せることを知る。不鮮明だった自己の輪郭(透明だったハート)が自己を確立する(形を得る)。

 こんな感じです。ただし、私が再三注意しておくのは、"僕"は大きすぎる空っぽを完全に埋め合わせるような根本的な大解決は起こしていません。なぜなら、本来の「あなたにたった一度でも頷いて欲しい」という目的を達成していないからです。
 空っぽ=あなた一人との呼吸を思い出す事は出来ることに気づきましたが、それが空っぽを満たすわけではありません。自己存在の肯定を真に得たというわけではないのです。

 ですが、月虹における最大の問題=謎々「同じような生き物ばかりなのにどうして生まれたのか」が解けたといっても良いでしょう。

第7段落ではこう述べました。
 僕は謎々の答え=自己存在の意味をあなたに「肯定」という形で求めるのです。

 そして、発見を通し"僕"が見つけたその解は、「生(新しい傷跡)があなた一人との呼吸のせいを蘇らせるから」ここから少し根本へ引き戻れば
「同じような生き物であれ、各人に特有なる呼吸(思い出)を有するから」
​です。いつものBUMPらしい感じを捉えられますでしょうか。
 当然ここで、"僕"は、謎々という"僕"を動かす要素に突き動かされ、あなたへの肯定を求めたのに、世界に自己肯定を得たことで"謎々"が解決に至るのかが疑問になる事がありましょう。それはこの命題が、クイズでも、問題でもなく"謎々"だからです。つまり、真面目に答えるもんじゃなく、頓智がきくもんだからです。真面目に向かい合って、解決できるもんじゃないと、"僕"は知っていて謎々というのですから、解決も当然謎々を解くようなものなのです。
 しかし、筋の通った解決を得ました。解釈する側が助かるくらい辻褄があっています。いや、辻褄が合うように解釈をしてるのです。誰かがからくりサーカスを読んで、この文よりも論理において同列か優ったものを持ってきたら、この文は全く無意味なものになるでしょう。

 また、この第11段落では横の歌詞利用構造が見られ、カタルシスが効果的に得られる作りになっています。特に白眉は「あなた一人呼吸のせいで」→「あなた一人との呼吸のせいで」でしょう。"僕"の解決が明確に認められます。
 
第11段落のまとめ
  • 謎々の解(各人は特有なる思い出を持つ=多様→生の意味がある)を得
  • 自己存在を確立する(解決)
​意見がぐちゃぐちゃですみません。伝わっていることを祈ります。



12.たった一度だけでも頷いて欲しい
 どんな歩き方だって会いに行くよ
 あっただけの命が震えていた
 理由ひとつだけ 虹を見たから
 いつだって 舞台の上



 最後に一、二番のサビの組み合わせが繰り返されます。​縦の歌詞利用構造​です。
 しかしながら、ついさっき解決が行われましたから、解決が行われていない状態だった一、二番とは趣が異なります。暗かった印象のサビが、何とも明るく聞こえると思います。組み合わせから、省略された句を見ても、雰囲気が明るくなった事が明らかにわかります。
略された句は以下の通りです。

「鏡のように手を伸ばして欲しい」
「その一瞬の一回のためそれ以外の時間の全部が燃えて生きるよ」
「世界が時計以外の音を失くしたよ」
「行方不明のハートが叫び続けるよ」
「あなた一人の呼吸のせいで」
「いつかその痛みが答えと出会えたら」
「落ちた涙の帰る家を見つけたら」

どれも暗い句です。
矢張り、選択的に明るく聞こえるように組み合わされている気がします。
 明るくというと、語弊があるかも知れません。覚悟に満ちたというか、視野の開けたというか、力強いというか、まぁ各人で好きにしてください。

たった一度だけでも頷いて欲しい
どんな歩き方だって会いにいくよ

 "僕"は謎々を解き、自己存在を確立しましたが、何をあなたに求めるのでしょうか。
 それは、より純粋な肯定でしょう。自己存在の意味をあなたに責任をなすりつけるように求めるのではなく、純粋に、自己としてあなたにあって、頷いて欲しいのでしょう。つまり、得た謎々の答えをあなたに認めてもらうのでしょう。だから明るく聞こえるのです。しかし、この句の明るさは、月虹の持つ巧みな段落構造による印象の誘導がなすところが大きいと思います。
 そして、もう一つ、"僕"は生という旅の終着点にいないということがわかります。生を確立しても、まだ旅は続き、あなた向かって歩きに行くようです。

 

あっただけの命が震えていた
理由一つだけ 虹を見たから

 "僕"が見た虹は月虹です。夜にしか見られないものです。これは、夜の中で、新しい傷跡から蘇ったあなたとの思い出​に他なりません。
 つまり、精一杯の命の活動は、蘇ったあなたとの思い出を見たからとします。よくわからなくなりましたが、単簡にいえば、生の活動(命が震えていた)は、生の意味(思い出)のため、ですから、全く当然です。
第10段落であった、思い出が蘇ることの発見が月虹ではありません。なぜなら、その時はすでに、謎々がわかった夜明け頃(謎々がわからないのは夜の中)、つまり月の沈んで太陽の登る番です。月はないので当然月虹は見えません。
 ただ、あなた=月とすると、昼あなたはどこへいくのかと、何だか論外なややこしい事が起こるのでやめておきます。
 また、舞台設定について、夜明けよりも手前側、謎々がわからない夜の中といった事から、矢張りC〜ラスサビで夜明けとして良いでしょう。ただし、そしたら必ずまた夜が来るのです。これは、アウトロの価値です。

いつだって 舞台の上

 最早明るい僕の意思が見えます。輝かしい舞台の上で生きるという強い意思が認められます。それは言い過ぎかもしれませんが、1番の舞台の上より、明らかに覚悟に満ちた印象があるのは、やはり音韻的印象からも分かるでしょう。


第12段落のまとめ
  • 月虹=夜の中で新しい傷跡から蘇ったあなたとの思い出
  • 夜明けを迎え、生きていく"僕"。
最後の、熱い熱の篭った「たった〜」と、畳み掛けるような最後の1,2番ラッシュ、そしてタイトル回収。素晴らしいラスサビです。

 ただ、正直、aurora arcでここまで初めて聞いた時、「あれ?」と思いました。違和感と、失望に近い感じが頭を駆け巡りました。それは、月虹が概して明るすぎると感じたからです。深くまで歌詞を読み取れなかったこともありますが、何だか割とハッピーエンドじゃないかと、期待外れ感を得てしまったのが正直なところです。しかし、すぐに、月虹が傑作たる所以はこの後にある事を思い知るのです。

 月虹はまだ終わりません。最後にアウトロがあります。私は、このアウトロこそが月虹の醍醐味であり、真意であり、本当に読むべき対象だと考えます。我々は、物事の印象を初めと終りに見いだします。特に楽曲という、一度も振り返らずに聴いて終わる媒体では、終わりの印象が全体の印象です。
 まず、これは唯の音韻的印象に過ぎませんが、月虹のアウトロは薄気味悪いような、どちらかというと暗く、不穏な印象があります。恐らく万人に共通でしょう。それほど思いっきり暗いです。
 これが何を意味するのか。それは、月虹における全体及びその後のストーリーと、印象の決定です。
 つまり、矢張り月虹は暗いのです。ハッピーエンドでお仕舞いではないのです。また夜が来るのです。その時に、今回得た謎々の解が、通用するとは限らないのです。また、あなたへ肯定を求めるために、時間が燃えて生きるのかも知れないのです。これこそが、謎々が"謎々"たる理由で、月虹が傑作たる理由なのです。
 そして、このアウトロが、夜をモティーフにした月虹全体の印象を、非常に上手くまとめ上げています。このアウトロが無かったら、多分月虹は何か調子の変な、物足りないようなものになっていたでしょう。このアウトロあってこその月虹なのです。
 東京ドームの1日目で月虹を聴きました。拍手がアウトロを待たずに起こったことが、甚だ残念ではありますが、あまりに良かったので、アウトロを待てずに拍手する心持ちがとてもよくわかります。ライブ向きでは無いのでしょうか。


 以上で大体終わりましたが、恐らく記念撮影より煩雑でよくわからん方もおるでしょうから、初めから単簡にまとめておきます。

 "僕"は生の意味を見失い、空っぽを得る
同じような生き物なのにどうして生まれたのかという謎々を解くために、あなたに自己存在の意味を求める
その過程で、新しい傷跡が付くたびに、その傷跡=生の証拠からあなたとの思い出が蘇る(月虹が見える)事を発見する
"僕"はこの各人に特有な思い出に自己存在の意味を得る
自己存在を確立し、夜を凌ぐ"僕" 
そして旅は続く


凌ぐという表現が月虹の雰囲気に合っているかも知れません。
そして、最後に冒頭で述べた3点の魅力について、

1.自己本位的な切望感の強い詞
2.文章単位での巧みな歌詞構造
3.歌詞全体でのストーリー構成
 
 1〜3まで、全て感じられたと思います。
1は主にサビで、2.は歌詞全体で、
 3については、アウトロまでで、煩悶から解決までの王道でありながら、BUMPらしい真の解決を避けた構成を指します。

そして、いかにして月虹が魅力的かという問いに対して、
 1〜3の要素に加え、これらが、すべてにおいて極めて高いレベル(度)で歌詞に組み込まれ、かつ要所々々に度が強かったり印象的であったりするような箇所が存在し、ある点では解釈の幅を持てるように出来上がっている。これを答えとして月虹の解説を終りにしたいと思います。


 あんまり精査出来なくて、矛盾したり不足したりしている点があるかと思いますが、ご了承ください。ミゲルデウナムーノの言葉から言い訳を作っておきます...もし決して自己矛盾に陥らない人があるならば、それは事実上まったくなにも言わなかった人だからに違いないのです。

 最後に繰り返しとなりますが、

 これらはただの論理じみた言葉の羅列に過ぎないのであって、これが楽曲の魅力とテーマ、示すところを全て解説していると思って読んだら大間違いであります。言葉で全て解説出来る芸術など、余程陳腐なものでしょう。この解説は、作品と極めて近くに位置することを望みますが、全く対極な、いわば教科書のようなものです。なんとも矛盾した話ですが、数学の教科書を読むだけで、本質的な数学の魅力が手に入る訳がありません。これらはむしろ最も俗で、卑近なものです。
 あくまで理解の一助とするもので、これを鵜呑みにしちゃいけません。寧ろ、人によっちゃ読まない方がいいかもしれない。正しく受け取らなくては、ただ楽曲を矮小化させるばかりです。


 随分日が短く寒くなってきました。次回は多分相当先か、もしかしたら無いかも知れません。
 新曲が待ち遠しいばかりです。そういえば、東京ドームの記念撮影の音程替えがとても良かったです。

2019.11.20 tozawa
 

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追記 2019.12.3

 記念撮影のフルバージョンが公開されたとき、私は記念撮影こそBUMPの音楽的、哲学的完成系だと思いました。極言すれば、今まで完成系だと思っていたロストマンすら超えてきたとさえ感じました。
(このような楽曲に順位付けするようにもとれる見解に対して、大いに主観的であり客観性を欠くという意見があることについては、全くその通りである。野暮な話として見逃していただきたい。)
 これは以前解説を書いた時にもより強くそう思いました。裏を返せば、もうこれを超えることは難しいと思いました。そしてこれは記念撮影に対してだけでなく、ユグドラシルに対しても常々思っていたことです。
 さてaurora arcが世に出てどうなったかというと、愈々ユグドラシルを超えてきたと思いました。月虹は質において記念撮影を超えてきたと思いました。新世界、流れ星の正体、aurora...これらは全く高いハードルを軽々超えたと感じました。

 野暮な話から脱却するために、今一度楽曲を傍観して私が思うのは、例外なく全ての曲が、傑作の閾値を超えて存在していると言うことです。俗っぽく言えば、「捨て曲が無い」という事です。あらゆる曲が、それぞれに個として存在し、その個として強烈に音楽性と、哲学性と、個たらしめる性質を持っているのです。多分、だからこそ新曲全てが常に新しい最高傑作になる可能性を高く持っていて(新しいのは当然新鮮で良く聞こえるし、当然本人達の技術も時間的な力で高くなるから質は良くなるに決まっている)、新旧がお互いに正のフィードバック効果を送り合うのだと思います。
 つまり、どれが最高傑作か探るより、どうしてそれを探ることができるかを考えると、見えてくるものがあって、それこそがBUMPの最大の魅力であると思います。

 再び野暮な話戻ると、記念撮影もいいが、最高傑作は月虹に違いない。もう月虹を超える曲は世にでますまい。きっとでない。



 それでも、たぶん、出るのでしょう。
そうして僕らはまた、各々の曲の魅力を再発見することが出来るのでしょう。

 一曲目にして、いきなりですがこの楽曲を扱います。二万字近く、長いので注意してください。

 この楽曲を理解することが出来れば、おおよそ藤原基央を理解することが出来るだろうと思うほどの傑作であるから初めに扱います。


 テーマとなるのは

「過去、現在、未来を包括した自己のあり方。また、その再考」

とかでしょうか。兎角、哲学的BUMP OF CHICKEN の完成系の一つだと思います。

さて早速歌詞全体を見ましょう。



1 目的や理由のざわめきからはみ出した 名付けようのない時間の場所に

紙飛行機みたいに ふらふら飛び込んで 空の色が変わるのを見ていた


2 遠くに聞こえた 遠吠えとブレーキ 一本のコーラを挟んで座った

好きなだけ喋って 好きなだけ黙って 曖昧なメロディー 一緒になぞった


3 やりたい事がないわけじゃないはずだったと思うけど

思い出そうとしたら 笑顔とため息の事ばかり


4 ねぇ きっと

迷子のままでも大丈夫 僕らはどこへでもいけると思う

君は知っていた 僕も気付いていた 終わる魔法の中にいた事


5 昨日と似たような繰り返しの普通に 少しずつこっそり時間削られた

瞬きの向こうに いろいろいくつも 見落としたり 見落としたふりしたり


6 あれほど近くて だけど触れなかった 冗談と沈黙の奥の何か

ポケットには鍵と 丸めたレシートと 面倒な本音を つっこんで隠していた


7 固まって待ったシャッター レンズの前で並んで

とても楽しくて ずるくて あまりに眩しかった


8 そして今

想像じゃない未来に立って 相変わらず同じ怪我をしたよ

掌の上の 動かない景色の中から 僕らが僕を見ている


9 目的や理由のざわめきに囲まれて 覚えて慣れて ベストを尽くして

聞こえた気がした 遠吠えとブレーキ 曖昧なメロディー 一人でなぞった


10 言葉に直せない全てを 紙飛行機みたいに

あの時二人で見つめた レンズの向こうの世界へ 投げたんだ


11 想像じゃない未来に立って 僕だけの昨日が積み重なっても

その昨日の下の 変わらない景色の中から ここまで繋がっている


12 迷子のままでも大丈夫 僕らはどこへでもいけると思う

君は笑っていた 僕だってそうだった 終わる魔法の外に向けて


今僕がいる未来に向けて






全容を見ると文量は普通ですね。比較的長めのSV形の文章体が多めです。一段落目から見て行きましょう。


構成としては


各段落ごとに全容を見て、それから一文ずつ読み、最後まで読みきったらまとめをします。チラチラ全体歌詞やその段落の歌詞を見ながら考察を講義のようにお読みになっていただければ私の言っていることが嚥下しやすいだろうと思います。






1 目的や理由のざわめきからはみ出した 名付けようのない時間の場所に

紙飛行機みたいに ふらふら飛び込んで 空の色が変わるのを見ていた


冒頭の時間軸はです。述語の用法は継続でしょう。藤原基央の詞は時間軸が複雑で頻繁に変化するので必ず注目していきます。

ほとんど「自分」がふらふらとぼんやりしながらどこかへ行って、空を長い間眺めていたという情景が浮かびます。


目的や理由のざわめきからはみ出した、というのは、「はみ出した」訳ですから型に押し込められて自然はみ出す感じか、大きいものに押されてはみ出すか、どうであれ文章全体は明るくはありません。まだはみ出したものの明暗は不明です。

 まだ主語はありませんが自分です、自分は特に理由もなく飄然としているわけでもありません。「目的や理由のざわめき」という表現からもこれは伺えます。ざわめきですから、ざわざわと心の中でうち騒いでいてそういったものにおされたか、そういった疲れる類から一旦距離を置きたいようです。


 そのはみ出した時間の場所に行きます。名付けようのないのははみ出したもので複雑で自分の中で確かな感覚がないために、先述の目的や理由といったもののように名詞化することができないからでしょう。無邪気と言うものでしょうか。その中へ飛び込みます。


次の文構造は

「目的や〜はみ出した」「名付けようのない時間の」「場所」を修飾しているのだろうと思われます。時間の場所とはすなわち、時間の一点、過去でしょう。しかし、こうなると時間と場所がニアイコールで繋がるために、「目的や〜はみ出した」「時間」を修飾しているともとれます。またメロディで区切りをつけると「目的や理由の/ざわめきからはみ出した/ 名付けようのない/ 時間の場所に」ですから、「時間の場所」で一つの名詞として扱っているのかもしれません。しかし、解釈を取る上で大きな差異は生じないので好みです。どうであれ、後述に「飛び込む」とありますから、別の場所の時間に思考を巡らせることをこう表現したのでしょう。つまり、目的とか理由とかいった面倒な事を考えていなかった、無邪気な過去を回想するのです。


飛び込むのも紙飛行機のようにふらふら飛び込みます。


「紙飛行機」についてここで少し触れます。

紙飛行機というのは自発的に飛びませんから、嫌々ではないが、過去を思うに当たって今の自分の感情によって飛ばされたようです。過去の自分に飛ばされたとも言えますね。しかし無意識に飛ばされて、気付いたら外にいて空眺めてたなんてことではなくて、飛ばされたことを自覚して、自然と動いている感じでしょう。たださあ空見に行こうとかじゃありません。また、本来紙飛行機は風に任せて、風の通りにまっすぐ進みます。決して直角に曲がったり自分で速度を変えたりしません。今の状況において、風は自分の思考であるとも言えなくもないわけです。もっと言及するなら、紙という材料があって、折って形にして紙飛行機が出来上がります。純物質でないというか、自然物ではありません。今回ではまず過去を含んだ今の自分がいて、はじめて過去に回想することができるという訳です。

さらに、飛び込んだという以上、紙飛行機は過去の回想というところへ着地しています。これは後に大きな意味をなすのです。


紙飛行機と表現したのはこういう理由だと思います。後に紙飛行機がまた使われるので注目しておきました。

空の色が変わるのを見ていたのは、何もせずに時間を過ごしたことの表現ですが、朝→夕か夕→夜か夜→朝かは関係ないでしょう。個人的には昼くらいから夕です。常識的に考えると、深夜徘徊するような瘋癲な主人公ではないので夜→朝はないでしょう。関係のないことですが、冬頃の白い日は感傷的なもので、その日が徐々に色をつけて落ちていく様は心に響くものがあります。そういった感傷の類に飛ばされたと考えるのも面白いです。



さて、一段落を纏めると、

今、外へ出て空を見ていたわけです。無邪気な昔を思いながら。




2 遠くに聞こえた 遠吠えとブレーキ 一本のコーラを挟んで座った

好きなだけ喋って 好きなだけ黙って 曖昧なメロディー 一緒になぞった


ここから過去です。過去の回想二文です。輝かしい過去の回想が始まります。

さて、難解な部分です。まずわかるのは過去は一人ではないことです。

おそらく二人でしょうか。


余談ですが、この曲が公開された時、コーラという新鮮な単語に反応していた人が多くて面白かったことを覚えています。


 「遠くに聞こえた遠吠えとブレーキ」ですが、遠吠えとブレーキというのはそのままメタファーを考慮せずとるなら、一般化して生活音です。自転車の止まる音と犬の鳴き声です。これらが遠くに聞こえた訳ですから、別のことに夢中になっているようです。しかし聞こえてはいる訳です。無我夢中に二人でいるわけじゃないですね。ですから、過去といっても小学生だとか、そこまでは過去ではないはずです。


遠吠えというのは言い換えると強がりでブレーキは停止です。すなわちそれらが遠くに聞こえたということは、輝かしい過去の自分は、この時間が終わるなんてあまり思っておらず、強がることもないのでしょうか。今の時点ではこの解釈が妥当です。


そしてこの近い距離感の中でコーラを間にして二人で座っています。

 コーラは一本、二人で同じ一本を飲んでいたと考えるのが自然でしょうか。コーラは弾けるようなさわやかな刺激の象徴であって、ただの効果で、大した意味は無いだろうと思います。深読みをするなら、コーラというものは炭酸ガスが徐々に抜けていき、元の刺激が必ず失われるものであり、そういう儚さが二人の時間軸にも反映されている...なんていうことも言えましょう。兎角、コーラは二人の間に壁を作るものではありません。マイナスか中立の物体です。


そして、この状態でかはわかりませんが、好きなだけ喋って黙って歌います。好きなだけ黙れる仲ということから、二人が気を使うことのないほど親しい間柄であるということです。

後続する二つも概して二人仲が良いということです。この回想をしている今、座っているのは、同じベンチだろうと思います。


「曖昧なメロディー」をなぞるというのは類似表現が他楽曲にもありますでしょうか、お気に入りワードですかね。こちらを深読みするならば、ここでいうメロディーは新たに産生されるものではなく、お互いが知っているものであり、それを確かめ合いながらなぞっていくのです。曖昧であるのは辿々しいかわいげを加え、この一句は二人ということと、かわいげや、せつないような雰囲気をじんわりと強調しているようでさえあります。


しかし、ここのフレーズはのちにもう一度登場するのです。ですから、割と重要なフレーズです。また登場したときに再び考えましょう。



第2段落は、

一人ではなく二人だった頃の回想

でした。







3 やりたい事がないわけじゃないはずだったと思うけど

思い出そうとしたら 笑顔とため息の事ばかり


ここから恐らくだと思います。思い出すのも今からですし、次に来る第4段落のサビが確実に今ですから多分前半もです。ここは否定文の否定の曖昧化と、一見よくわからない構造です。簡単に和文和訳すると、

「やりたい事があったと思うが」です。

こうくどい文型にしたのは、自分の頭の中の思考ですから、上手くまとまっておらず、行ったり来たり、曖昧であるということでしょう。


ここでいう「やりたい事」とはなんでしょうか。

やりたい事を換言すると目的や理由になるのだとすると、目的や理由からはみ出したところへ思考を巡らせているので当然ですが、これは変ですね。目的や理由からはみ出した時間の場所というのは過去で、目的な理由を今は持っているでしょう。しかしそれらのない過去に想いを馳せることで、今本当なら持っているはずのそれらをなかなか思い出せない。となると、つまり、過去への回想をすることで、上手く自分がわからなくなってしまっています。後述される迷子です。

伝わったかわかりませんが、複雑に混沌としています。

ここのあたりの表現で自分がなにか迷っている迷子である事を予期させます。巧みな表現ですね。


過去とは違う一人ぼっちで、目的や理由といった面倒ごとに囲まれた自分が、未だ過去に思いを馳せ、今の世界に生きにくくなっているのです。過去に随分自分が引っ張られているようですね。

「笑顔と溜息」は、過去のことと考えると溜息というのは一寸変でしょうか。ここまでの考察だと、今の方が溜息がありそうです。

だとすると、昔の笑顔と、今上手くいっていない自分の溜息で、対比されているのでしょうか。これも頷けますが、なんとでも解釈できます。例えば、笑顔と溜息はどちらも過去のもので、過去の自分は笑顔になるほど楽しみを感じつつもそれらの終末を悟るペシミストで、当然溜息もでる。こちらには後述される「気付いていた 終わる魔法の中にいたこと」という強固な根拠があります。

 歌詞は笑顔と溜息のことばかり で終わっていますが、省略されている語を補うと、「思い出そうとしたら、笑顔と溜息のことばかりが思い出される」となります。こうなると、今、溜息をついているとは考えにくいです。分構造的にも後者です。

後述する歌詞に同様の表現が頻出するのでここでは後者の方で解釈とします。

 


この段落のまとめは

回想一旦終わり 今迷子であることの予期

一番サビの前まで来ましたが、ここまで明確な主語がありません。かなり抽象的です。未だ想像の域を超えません。







4 ねぇ きっと

迷子のままでも大丈夫 僕らはどこへでもいけると思う

君は知っていた 僕も気付いていた 終わる魔法の中にいた事



サビです。全体を見ると、ここから突然詞が明るくなります。1〜3段落で予想したほどには暗くはないようですね。時間軸はです。

「迷子のままでも大丈夫 僕らはどこへでもいけると思う」ですが、ベンチに座って考えた自分の悲観的楽観ですね。例えば困難があった時にそれを無理矢理して解決するのではなく、それを受け入れ抱えたまま良いように利用するというような、消極哲学であります。

しかし、こういう考えの前に理由がありません。となると、僕らはどこべでもいけると思うというのが理由でしょうか。後述します。

上手い比喩表現です。巌頭の感の大いなる悲観は大いなる楽観に一致するというのはこういったことでしょうか。また、これは以降繰り返されるであり、まだ今の自分の、今の存在への鬱憤の消化とまでは今のところいっていません。なんども繰り返されることで最終的に達観し、消化します。ここで、初めて主語が僕一人ではなく僕らと変化しますが、これは「ねぇ」ともありますから過去にいたもう一人へ、今のその人へ向けていると考えるのが自然でしょう。


 二文目です。倒置があります。BUMP頻出の「〜こと」という体言止めです。ここで、二人である事が判明し、さらに先ほどの遠吠えとブレーキという単語の意味が判然としてきます。過去の二人は無邪気でしたが、その楽しい時間が終わるという事に気付いていたのです。だからこそ、「遠吠えとブレーキ」がわずかに聞こえていたのです。遠吠えというのは強がりで、ブレーキというのは停止です。つまり、過去の二人は無邪気で楽しい時間にいたが、笑顔の裏にはほんの少しの強がりがあり、その楽しい時間も停止するということを自覚していたということです。


しかし遠くに聞こえたに注目するとなると、先ほどのようにが終わるのがもっと先で、強がってもいなかった 輝かしい時間であったともとれます。ここはわかれそうですが、2段落中心に考えるとこっちで、サビの終わる魔法にいた自覚と、2番以降の歌詞を考えると自覚ともとれるが、遠吠えとブレーキは再登場しますので、そちらで全体を見てどちらか一方に絞りたいと思います。

解釈が難しい、傑作に相応しい選ばれた単語です。


しかし、気にかかるのはこの句が「迷子でも大丈夫」という僕らの悩みの自己解決のキーの後に置かれていることです。

思うに、この一句は本当の自己解決へ必要な要素の一つです。歌詞中にそれを分散させて、一番のサビでは一つ提示しています。二つ目は記念撮影の定義にふれたあとのラストのサビに登場し、曲の終わりとともに自己消化の完了といった形にしているのだろうと思います。


一番が終わりました。

ざっくりいきましたが、説明不足を感じるところがあれば遠慮せずに聞いてくださって構いません。

まとめると、



今に悩み過去に思う僕が、君といた無邪気な過去を回想し、今において一定の段階まで自己解決をしました。


ここまでに2番において頻出する今が過去になるということの理解の片鱗がちらほらとあります。

ここまででこの楽曲の基礎はほとんど完成されました。二番以降で理由の補強や更なる発見を累加していき、最終解決に至ります。

迷子でも大丈夫の意味も、考えながら行きましょう。








5 昨日と似たような繰り返しの普通に 少しずつこっそり時間削られた

瞬きの向こうに いろいろいくつも 見落としたり 見落としたふりしたり


二番冒頭は、恐らく現在視点で過去を回想しているのでしょう。再び過去の回想へと戻りました。過去の些細な日常のことでしょうか。

普通に時間を奪われたのですが、ざっくり言うと楽しい時間が早く過ぎたということですね。


 過去の時間を昨日と似たような繰り返しの普通と言っているので、ここで上記の過去のかけがえのない輝き感は払拭しなければなりません。確かに良いものでしたが、二人はその行く末を察していて、10/10明るい時間とは到底言えません。

楽しい時間とは別の過去の日常とも解釈できますが

これはどうしましょうか。


昨日は現在の昨日、すなわちほんとうに昨日で、過去の楽しげな自分のいない時間であり それに似た繰り返される普通の日常に、徐々に時間を費やすこととなり、いよいよ一人になってに至る。というように取ると自然でしょうか。


「普通」に時間が削られたというのは、擬人法で、無生物主語で、自分にとって全時間に対する楽しい時間の割合が減っていったということでしょうか。どんどん過去からに進んでいっているということだと思います。こっそりですから、無意識に少しずつ時間が過ぎていったということです。


もう一つ解釈の仕方があるなら 「繰り返しの普通」というのは「繰り返しという当たり前」ということで、昨日と同様に繰り返されるごくあたりまえなドグマに過去から今まで時間を奪われたということ。とかでしょうか。文を意味的にどこで区切るかで解釈が分かれそうです。


 印象としてはこの文は、時間の経過をマイナス的に言っていますね。

今迷子のままでも大丈夫だそうですが、やはりまた過去に思いが寄っているのが伺えますね。

 文は上述のように考えるならばこれは回想です。それではこのまま先へ進みます。


次の文も回想です。

「瞬きの向こう」というのは自分の見ている世界で、パチパチと閉じたり開いたりするうちに時間と景色が代わる代わるするイメージを持ってこう詩を当てたんだと思います。主体は自分たちの時間です。これが受動態で削られたということですが、次から主語が自分に変わります。自分はその景色の中で色んなものをいくつも「見落とし」ます。見落とすというのは、現在に合わせて言い換えると忘れるということでしょうか。過ぎていく過去の中で見落としたというものは何でしょう。 見落とすを換言すると気づかない、であります。すなわち過去中で、この時間が過去になるということに気づかなかったということです。矢張り無邪気です。見落としたフリというのは、この時間が過去になることに気付きながらも、それを無視しその時間に生きたということです。気づかないフリというと、

ふと、思い起こされる曲があります。

「迷子って気づいていたって、気づかないフリをした」

無論ロストマンです。この二つの詩には状況は違えど根底には似た思考が這っているだろうと思われます。ロストマンも似たようなテーマですから、比べてみるのも面白かろうと思います。


余談でしたが、ここで歌詞に戻ります。ちょっとおかしいなと思った方がおるだろうと思います。見落としたり見落としたりしたのは、一つではなくいくつもで、一種ではなく多種であると言っているからです。つまり、見落とすことを気づかないと換言するならば、気づかないものが一つしか考えられないので、どうも前の色々との繋がりが不鮮明になるということです。

 

「色々いくつも...」から考え直してみます。

考えの概念的には正しいと思うので、「見落とす」と「色々いくつも」の繋がりを意識して、解釈し直すと、「見落とした」のは過去中の楽しい出来事です。


乃ち、"僕"は、過去の中で楽しい出来事に出会っていながら、それを自覚しません。もしくは自覚しつつ自覚していないフリをします。

これは、一定の方向に流れる時間の中で楽しい出来事を自覚してしまうということは、同時にその出来事が過去になるということへの理解であるため、これを避けたい"僕"が楽しい出来事を自覚しないのでしょう。

この解釈で進めて行きます。


ここも、やりたいことが無い云々と同様、メロディに合わせて次々に歌詞が登場して聴いていて面白いですね。



5段落のまとめは

過去の回想、過去の中で、自分は今が過去になることへの理解とその理解を意図的な忌避をする








6 あれほど近くて だけど触れなかった 冗談と沈黙の奥の何か

ポケットには鍵と 丸めたレシートと 面倒な本音を つっこんで隠していた


こちらも前段落同様、過去の話です。続いて過去の中の自分を思い返します。その意味で5、6は分けなくても良いですね。


一文目から見てみると、過去の自分の行動について迫っていっています。主語は第五段落二文目以降、自分です。しかし当然ですが、触れなかったという対象は決して物体的なものではありません。君との距離が近いけど触れなかったとかではありません。 前段落同様、概念的な展開であるので、よく見ていきましょう。

 

近かったが、触れなかったものとは、勿論、言うまでもなく、「冗談と沈黙の奥の何か」であります。

難関文です。記念撮影の歌詞において、藤原基央も直接的に、具体的に言葉にすることができない感情やその仕組みが登場するのですが、これがそうであります。「何か」と言うのですが、何でしょうか。曰く言い難い、と言ってしまえばそれまでですが、出来る限り解明していきましょう。


冗談と沈黙という二語は、反対語です。(時たま冗談が沈黙へ変化することもありますが その蒟蒻的な二語を使うのもポイントでしょうか)

 前段落通り行くのなら、冗談というのは過去における、楽しい時間の些細なもので、沈黙というのは過去における、時間の不可逆性への理解、ですが、ここでよく注意しなくてはいけないのです。冗談と沈黙の奥の何かを考えますから、冗談と沈黙を取り違えると、その奥の何かは当然把握できません。

 さて、歌詞中に沈黙が登場するのは2回目です。

1回目を思い出してみると、「好きなだけ喋って、好きなだけ黙って」ですが、ここでは沈黙がプラスの印象でした。同じ人が作詞しているのですから、2回目の沈黙も同様の印象で捉えるのが自然です。

 再考すると、時間の不可逆性への理解は、気づかなかったり、気づかないふりをした上で行われたものですから、沈黙ではないですね。


となると、「冗談と沈黙」は、「好きなだけ黙って、好きなだけ喋って」の言い換えです。 つまり、極端に簡潔化すると過去の楽しい時間です。言い換えの発見っていうものは面白いですよね。

ようやくその奥の何かを見ていきましょう。

 

しかし、奥とは一体どっちでしょう。前文には「何か」は触れなかったとあります。

この2段落についてのことを考えて上手くいくように解釈すると、以下のようになります。


「あれほど近くて だけど触れなかった」とは、

かなり理解していたが、その事実に接近しなかったことで

接近しなかったのは

冗談と沈黙の奥の何か すなわち、過去の楽しい時間の奥、先。未来です。


無理くりこう解釈すると、二番の傾向どおり、過去の中で、この楽しい時間が過去になって未来へ進むという事実の理解を、限りなくしていて、だけど触れなかったわけです。


こう考えると、綺麗に収まります。一番のサビの最後に宣言された「終わる魔法の中にいることを君も僕も気づいていた」ということの言い換え、補強のような形です。

だんだん大まかな流れが掴めてきたでしょうか。


次の文も依然過去です。

自分は ポケットに鍵と丸めたレシートと面倒な本音を突っ込んで隠しています。


隠す行為は意図的な行為です。もう何度も言ってきたので、十分でしょうが、自分は 鍵 と レシート と本音 を意図的に隠す行為の裏に、何度も前述した通り今の過去化の理解と 意図的な理解への回避があります。


さて、鍵・レシート・面倒な本音 という語句についてですが、こちらもコーラなどと同様深読みが出来そうですから一応記しておきます。

「鍵」というのは、何かを開くものです。藤原基央の詞の中では、ドアを開くものとして登場します。(cf. 同じドアをくぐれたら「ドアの鍵を受け取れるのは〜」虹を待つ人「そのドアに鍵はない」)


ここでも、似たような道具として使われているとすると、ドアがイマイチ不明です。この鍵はおそらく、またまた似た表現ですが、思考の鍵であって、時間の流れを解き明かしてしまうもので、すなわち例の理解です。これをポケットへ突っ込みます。


「レシート」というのは、前に必ず購入の動作があります。そしてその記録が全て記されて残るものです。すなわち、もうお腹いっぱいでしょうが、これは自分の理解どおり、自分が知っていたのと同じように、過去になってしまった類です。それを、くしゃくしゃに丸めて、隠しています。

よって、これも、例の理解への回避です。


「面倒な本音」についてですが、これも上記二つとおなじような役割を持つだろうことから、ある程度までは予想できますが、これ自体はいよいよ藤原基央しかわからないものです。ここでは、「相手へ今が過去になることの理解を促す言葉」もしくは、程度を強くして「過ぎてしまう今に居たくない」といったような類の気持ちとまでしか言えません。

しかし、いずれにせよこの本音はうまく言葉では表せないものだろうと私は思います。だからこそ、「面倒な」という形容動詞がつき、僕がポケットへ突っ込んだのだろうと思います。

 ふんわりしてますが、理解はできたと思います。



6段落のまとめは

前段落と同様(過去の回想、過去の中で、自分は今が過去になることへの理解とその理解を意図的な忌避をしていた)









7 固まって待ったシャッター レンズの前で並んで

とても楽しくて ずるくて あまりに眩しかった


ここで、記念撮影において象徴的で美しい場面の登場です。

一般的な記念撮影ですが、藤原基央の世界を通した描かれ方をしていて、歌詞の中でも印象に残っている方が多いかと思います。


前の段落まで過去の回想は、過去の日々のことでしたが、この段落で記念撮影という儀式を持って回想を閉じます。展開も美しくできています。

固まって待ったのは、記念撮影をする人達で、歌詞からするとタイマーで撮っていますね。三脚付きの一眼レフか何かで撮っている感じが僕はします。 今時スマホですが、こういう過程に意味を持つのでしょう。


注目すべきは「とても楽しくて、ずるくて、あまりに眩しかった」この一文です。とても楽しいのは理解できますが、ずるいのは何故でしょう。誰でしょう。


「ずるくて」について考えます。

前の考察から想像すると、ずるいというのは、記念撮影をする瞬間、前に申した例の理解、不安、そういった類のものを忘れているからでしょう。今思い返せばそれらを忘れていて「とても楽し」いから「ずるい」のです。後述するあまりに眩しかったというのも、ここは終わることとか考えない まさに輝いて思い返される過去があり、終わった今からみて、終わる自覚を度外視して楽しんでいるのが だからこそずるいのです。


「あまりに眩しかった」というのは、もちろん記念撮影をする光景が美しかったというのもありますし、記念撮影においてフラッシュを焚くことがありますが、そういうダブルミーニングも面白味として含んでいると思います。


7段落のまとめは

過去の回想がいよいよ記念撮影をして終わる。











8 そして今

想像じゃない未来に立って 相変わらず同じ怪我をしたよ

掌の上の 動かない景色の中から 僕らが僕を見ている




いよいよ二番のサビです。

考察通り、過去の回想が終わり、に戻ります。


「想像じゃない未来に立って」という句のなかの「想像」というのは、過去が終わることです。過去から見て、過去が終わって未来になる、その未来にいることです。すなわちです。

続いて、「相変わらず同じ怪我をしたよ」が難所でしょうか。

相変わらずというので、過去にも怪我しています。そしても怪我をします。怪我というのが全体何を示すのか、ここも理解が難しそうですし、解釈が分かれそうです。


過去にも同じ怪我をしたというのがヒントであると思います。

怪我というと、骨折とか擦り傷とか、肉体的なものを想像しますが、「」において怪我をしていますが、「」はただベンチに座っているだけです。肉体的にはどうやったって怪我できません。

そこで、怪我を拡大して、精神的な、思考的な傷、痛みと捉えてみると判然とするでしょうか。

自分が過去にしていた思考上の怪我とは、矢張り、例の理解です。

すなわち、今の過去化の理解です。これを回避(レシートをポケットに入れる・見落としたふりしたりする)することもありましたが、今はおそらく回避の前にある理解がダメージでしょう。


こうなると、この理解は自分だけでなく、君もしていましたから(君は知っていた 僕も気づいていた) 過去では二人とも怪我をしています。



次に進むと、ここから徐々に題である記念撮影について触れて行っています。

「掌の上の動かない景色の中から僕らが僕を見てる」

これは、状況を把握すると、今掌の上に記念撮影した写真があって、その中に映っている僕らがこっちを見てるわけです。

これは、記念撮影が、時間をつなぐものであることの示唆や、過去の僕らが例の理解をしていることを、表現しています。

記念撮影に対する、藤原基央の興味深い角度からの考察が伺えます。記念撮影の定義の一つです。『過去、現在、未来をつなぐもの』であります。



ここから間奏ですが、少しBUMPの歌詞のよくあるパターンを記しておきます。

まず、冒頭で一見では解決し難い問の投げかけ→思考→独自の視点から難問を解決する。というものです。この例に当てはまる楽曲は多く見つかると思います。今回も記念撮影において、過ぎ去る今に対する思考の仕方という難問を「僕」が思考し、解決します。

すなわち、以降続くのは解決です。

この間の爽やかな間奏は、解決に至るまでの、精神的表現として捉えると、また違って聞こえてくると思います。


 





9 目的や理由のざわめきに囲まれて 覚えて慣れて ベストを尽くして

聞こえた気がした 遠吠えとブレーキ 曖昧なメロディー 一人でなぞった


ここで、第1、2段落と似た文章の繰り返しです。

第1段落は「目的や理由のざわめきからはみ出した」で、これは過去修飾でしたから、過去と等しい表現です。

第9段落では、「目的や理由のざわめきに囲まれて」です。これは、「」です。目的や理由といったうるさいものが周りに多いのはです。すなわち続く「覚えて慣れて ベストを尽くして」に近い、記念撮影をする前の過去より後のことです。


こちらは目的語がないのでよく注目します。

何を覚えたのか、何に慣れたのか 何にベストを尽くしたのか

これはいろんな解釈がありますが、今の目的や理由に囲まれた生活で、自分のあり方を覚えて、慣れて、ベストを尽くしたとも言えます。

また、先ほど言及した「怪我」を覚えて、慣れて、怪我しないように、しても良いようにベストを尽くしたとも言えます。


後述をみると、別の話になっているようですから、本当にどっちでも良いか、両方含有しているで良いでしょう。



さて、ここで遠吠えとブレーキが再登場です

注意します。

文の用い方として、そのまま前にこの語句が使用された文ごと持ってきているわけではなく、似ているが異なった文中で語句のみが使われています。文ごと持ってこられているなら、遠吠えとブレーキの意味が変化して文の意味を変えるわけですが、今回はそうではないので、遠吠えとブレーキの意味は前のものと同じはずです。


この聞こえた気がしたというのは、深読みしない限り、過去の回想から現在に戻る効果的な一文です。例えば、故人を思っているときに、ふとその故人に懐かしい声で呼ばれたような気がして、ハッと我に返って振り返るが、そこにその人はおらず、現在に強く引き戻される。といったような、時間をジャンプするよくある手法です。


また、わかるのは、過去と今の対比が行われていて、場所も恐らく同じだろうと言うことです。


ここで「遠吠えとブレーキ」をまとめながら考察します。


出てくるのはこの二文

「遠くに聞こえた遠吠えとブレーキ」

「聞こえた気がした遠吠えとブレーキ」


前者の解釈は二つに分かれていた

1.遠吠えは強がりでブレーキは停止 それらが遠くに聞こえていたので、自分には今が停止しやがて過去になる自覚が微かにあった。そして今を楽しんでいる心のうちに強がりも含まれていた。


2. 遠吠えは強がりでブレーキは停止 それらが遠くに聞こえていたので、この二つの要素を気にしていなかった。それほど輝かしい過去の中にいた。


今回は「遠吠えとブレーキ」が聞こえた気がした

「遠くに聞こえた」「聞こえた気がした」を比較すると後者の方が程度が大きいです。より強く遠吠えとブレーキに意識があります。


2の解釈でこちらを考えます。

すると、現在において昔は気にしていなかった強がりと今の停止が過去よりもはっきりと自覚された。ということなりますが、本当にそうでしょうか。聞こえた気がしたというのはまあいいとして、

一番終わりから2番にあったように、僕は今が過去になる自覚を持っています。今更、という感じや2番前半の歌詞との矛盾が生じる気がします。


1の解釈でこちらを考えます。

聞こえた気がしたというのは すなわち 強がりと今が過去になることの超克です。強がりや停止を悲観することなく、包括的に捉えられるようになったということです。わかりやすく言うと、今になって、その停止と自覚が再生されて、より理解できたという感じです。


しかし1だと 構成上 しつこすぎる気もするのです。

一番は楽しかった過去の回想から始まって 一番サビの最後で終わることの自覚が登場し、2番以降で補強されていく、という形が綺麗なのです。 つまり、1の意味も捨てきれないと思います。今、聞こえた気がしたのは、主にエフェクトで 深読みすると1や2の解釈ができるというくらいでご勘弁ください。

おそらく藤原基央はここまで考えていません。無論、普段複雑に深くまで思考しているから、考えなくとも自然と考えてある歌詞を書けるのだと思いますが、ここまで掘り下げてしまうと、よくわからんことになるのです。今まさによくわからんのです。ただ私は1の立場に立ちます。


まだこの段落は続くのでそちらも見てみましょう

「曖昧なメロディー 一人でなぞった」

こちらは、第2段落の過去の回想の一人バージョンです。先ほど、過去で場所も同じと申しましたが、メロディーを一人でなぞったのは、リアルタイムだと思います。

ここで、メロディーをなぞるという行為を深読みします。

前も出てきました。そして今回も出てきました。何か含蓄のある文だと思うのです。私が考えるのはメロディーをなぞるということは、すなわち時間の流れをなぞる、意識する。ということだと思うのです。こう考えると、合点が行くのです。実際、二人や一人で歌うというのは、私は思い浮かべることができんのです。この説を推します。是非前にこのフレーズが登場した第2段落へ戻ってみてください。上手く解釈できます。



そして、、同じように時間の流れをなぞったのだと思います。

ここで

矢張り私は、先ほどの二説のうち1を推します。

ここがいよいよこの先に登場する解決の入り口となるです。難問の解消の始まりと捉えるのです。


第9段落のまとめは

今に思考が移行 今の自分の在り方に対する解決を始める。








10 言葉に直せない全てを 紙飛行機みたいに

あの時二人で見つめた レンズの向こうの世界へ 投げたんだ


ラストのサビ前、

記念撮影の定義が発表されます。ここにカタルシスがあります。今に迷う「僕」が記念撮影の写真をきっかけに在り方を見出し始めて、記念撮影にこう意味を見出します

『言葉に直せない全てを紙飛行機みたいに、あの時二人で見つめたレンズの向こうの世界へ投げた』



冒頭の紙飛行機のシーンを覚えているでしょうか。過去の回想の時に登場し、そのときには、紙飛行機は過去の自分に飛ばされて、風に乗って、過去の回想というところへ飛び込んで着地します。記念撮影の定義と辻褄が合いました。過去の自分が投げた紙飛行機はしっかりと、過去から現在へ飛び、現在から過去を回想へ着地してきて、記念撮影がそういう装置として機能しています。

ここは見落としている方が多いのではないかと思います。いかに藤原基央が天才であるかわかります


3/6追記 紙飛行機についての補足


紙飛行機は歌詞中に二回登場する。

一.記念撮影した人が時間を超えて未来に飛ばす 

二.未来の自分は記念撮影に(ほとんど紙飛行機のように)飛ばされる

この2つ、過去に未来に向けて投げた紙飛行機と、今の自分が過去に向かう紙飛行機が時間を超えて一致する 

こういうわけで記念撮影のおかげで時間軸が繋がれる、どこへでいける→大丈夫になる


(しかし、紙飛行機みたいに過去の回想へ行く自分が、そのきっかけとして記念撮影した写真を見たのかは不明です。ですが、自分がその時に記念撮影を意識していなくても結果的には記念撮影の機能を理解するので後から繋がっています。)




第10段落のまとめは

記念撮影の定義付け

難問の解決







11 想像じゃない未来に立って 僕だけの昨日が積み重なっても

その昨日の下の 変わらない景色の中から ここまで繋がっている


ここからは楽です。ここまで来るのにずいぶん苦労しましたが、その分解釈の地が固まっているのであとは楽です。


想像じゃない未来に立ってというのは第8段落(二番サビ)と同様。

「僕だけの昨日が積み重なっても その昨日の下の変わらない景色の中ならここまで繋がってる」

ここは聞いていて気持ちがいいです。

昨日の下と言っていますが、時間の流れを堆積するような形でイメージされてるようです。

最後の文章に不足分を補うなら 中からここまで繋がってるから大丈夫ということでしょう。

あとはなにもいうところはないだろうと思います。

考察通り、記念撮影の機能、自己の在り方を発見、安心という感じです。









12 迷子のままでも大丈夫 僕らはどこへでもいけると思う

君は笑っていた 僕だってそうだった 終わる魔法の外に向けて

今僕がいる未来に向けて



第4段落(1番サビ)と似た文章

「気付いていた」が「笑っていた」となっています。


「僕」がした解決が一所に集まっています。

迷子のままでも大丈夫の意味を考えましょう。


藤原基央は「迷子」という単語を歌詞中に頻繁に登場させます。多くは迷子を肯定的に捉えています。

それはいったい何故か、詰まる所、記念撮影という楽曲中では、その理由が「僕らはどこへでもいけると思う」からです。
迷子というのは厄介で、真に理解するにはロストマンなどその他の曲を読み込まなきゃいけません。
だからここでは迷子自体の追求はしません。

そして、どこへでも行かせてくれるのは「記念撮影」です。輝かしい過去があり、それのうえに今があり、その二つに相違があっても、記念撮影が過去を繋いでくれる。
よって、、迷子であるということを記念撮影が無毒化してくれているのです。

どこへでもいけるって言ったってどこに行くのか。それはどこへでも構いません。
藤原基央が恐れたのは、恐らく、完全にかつ永久に停止すること、また、寂しさや悲しみを存在ごと忘却してしまうこと。
それらを防ぐものとして記念撮影は機能します。

本文に戻ります。
君と僕が笑っていたのは、過去のことです。微笑みかけた先は当然、レンズの向こうの世界、すなわち未来で、すなわちですが、
しかし、次には微笑みかけた先を明示しています。終わる魔法の外と今僕がいる世界の2つです。

終わる魔法の外というのは、過去になることの外、時間の経過をつくる魔法が効かない場所、すなわち、記念撮影です。記念撮影に微笑むというのは妙ですが、記念撮影という、時間を止める術に対して微笑みを投げかけます。

「今僕がいる未来」、にも笑っています。
過去の自分は、未来の世界に笑みを投げたのです。これは、未来への期待といえます。
これは、記念撮影をしているとき、過去現在未来の流れを超克している、包括的に捉えているということをあらわします。




まとめ

輝かしい過去と今の自分の差異に苦しむ自分は、過去の記念撮影によって回想をし、今における自分の在り方を

「記念撮影をしたことで回想もできる悩むこともできる。過去から今までの繋がりを意識できる。たとえ心理的に迷子でも、感情ごと忘れたり自分が止まったりすることはない」

から大丈夫、とします。
記念撮影によって時間の流れに対する悲観的楽観の極致へ到達します。


以上、記念撮影は「過去、現在、未来を包括した自己のあり方。また、その再考」をテーマとし、記念撮影という行為がそのキーとな
りました。

大変長くなりましたが、以上でお終いです。
(最後の最後のまとめの方はまだ理解が浅薄なので追記するかもしれません 途中の部分も不足を感じることがあるので随時更新します)

 
 最後に、これらはただの論理じみた言葉の羅列に過ぎないのであって、これが『記念撮影』の魅力とテーマ、示すところを全て解説していると思って読んだら大間違いであります。言葉で全て解説出来る芸術など、余程陳腐なものでしょう。この解説は、作品と極めて近くに位置することを望みますが、全く対極な、いわば教科書のようなものです。なんとも矛盾した話ですが、数学の教科書を読むだけで、本質的な数学の魅力が手に入る訳がありません。これらはむしろ最も俗で、卑近なものです。
 あくまで理解の一助とするもので、これを鵜呑みにしちゃいけません。寧ろ、人によっちゃ読まない方がいいかもしれない。正しく受け取らなくては、ただ楽曲を矮小化させるばかりです。
 

はじめまして 

このブログではBUMP OF CHICKENの楽曲の歌詞を詳しく考察していきます。


考察は良いものです。往来で耳から聞くだけでは得られないものをたくさん得ることができます。楽曲の奥深さ、立体感、共通性、...考察を通して歌詞を真に理解することができたなら、BUMPとの音楽生活がより豊かなものになると思います。このサイトがその助けになれば幸いです。


 私がBUMPを知ったのは小学生の頃でありますが、その頃から楽曲ばかりに注目していて、恐らく皆さんよりもメンバーの性格や思考を理解していません。また、最近になって漸く歌詞をしっかり見てみようと思い立ったので、当時の雑誌やラジオ等での藤原さんやメンバー本人による解説の多くは把握していません。そのため、独断がやや含まれると思いますから、私の解説中にそういったものを考慮して、事実と異なったり、明らかに違和を含むものが見られたら遠慮なくおっしゃってください。



 音楽についてのことはほぼ無知であります。メロディ進行や楽器の使い方から楽曲を深く掘り下げていくことは出来ません。それと楽曲のリリース時期やら細かい情報は必要でない限り記載しないのでwikiをご覧になってください。代わりに詞を一字一句丁寧に見ていきますので、ご了承ください。そうするとひたすらに文字ばかりが続きますが、それも多めによろしくお願いします。

 解説はこの口調で行います。矢鱈偉そうですが、考察というのはほぼ人の数だけありますから、諸説の一つとして私の考察を追ってください。

 歌詞は個人的な判断で区切り形式段落をつけさせてもらいます。

 




(BUMPは読み応えのある歌詞であるのに、適当で根拠がなく沈思熟慮のない考察ばかりが溢れていて、掲示板だけでなく動画配信サイトでさえも、お堅い太平楽を言うものがある。こういうのをみると言うものだけでなく、その太平楽に返信するものにも癇癪が起きてきます。全く分かっていないと思います。そして反論する気も起きず、ただブラウザバックします。恐らく私の精神が幼稚であるからですが、そういう逆上も考察のインスピレーションの1つです。)




 最後に、最も大切なことは、このブログにある解説というものはただの論理じみた言葉の羅列に過ぎないのであって、これが楽曲の魅力とテーマ、示すところを全て解説していると思って読んだら大間違いであります。言葉で全て解説出来る芸術など、余程陳腐なものでしょう。この解説は、作品と極めて近くに位置することを望みますが、全く対極な、いわば教科書のようなものです。なんとも矛盾した話ですが、数学の教科書を読むだけで、本質的な数学の魅力が手に入る訳がありません。これらはむしろ最も俗で、卑近なものです。
 あくまで理解の一助とするもので、これを鵜呑みにしちゃいけません。寧ろ、人によっちゃ読まない方がいいかもしれない。正しく受け取らなくては、ただ楽曲を矮小化させるばかりです。
 これを読んで、こう言うことか!と安心しちゃいけないと言うことです。

 




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